閉所好きのための空間
まごうことなき身内ネタである。
いや、「コンクリート打ちっぱなし&間接照明の部屋が自慢です」みたいに自分の家のデザイン的こだわりや、「絶叫好きが高じて家の庭にジェットコースターを作りました」みたいに自分で工夫して作った何かを紹介しても良いのだろう。
ただ私はブログを書いているのにも関わらず、自分の事をあまり話す気はないというSSRレベルであまりいない奴なのである。
更に家を自分なりにコーディネート、みたいなのも別にやってこなかった。インテリアデザイナーとかを「なんかしゃらくせぇ」と思う部類の人間なのだ。
では「我が家のここが好き」は特にないか?となると違う。
空間として一か所、結構気に入っている場所がある。
トイレだ。
一畳ほどのスペースで、壁で仕切られていて自分以外に誰もいない、そんな空間のあり方が割と好きだったりする。
特に何をするわけでもないのに、10分くらいいることもザラにある。それくらい私にとっては居心地がよく、ついつい長居してしまうのだ。
前にTVで人間(特に日本人)は広い場所を生活スペースで与えられても、結局端っこの一か所で固まっている場合が多いと言われていたが、「すみっコぐらし」寄りの人なんかはトイレが好きな場合もあるのではないか。
トイレに本棚を置く作家もいるくらいなので、トイレが落ち着くという人は少なからずいるのだと感じる。
トイレの神様なんて神がいるのも日本だけなんじゃないかと思う。
ただこれとは逆に、閉所恐怖症という部類の人間も存在する。
トイレは落ち着く場所にもなれば、恐怖を引き起こす場所にもなるのだ。
調べてみたところ、どこかに閉じ込められた過去がトラウマとして発症することもあるらしく、精神的な病気の扱いになるらしい。
天国にも地獄にもなるのだから閉所が人間の精神に与える影響ははかり知れない。
トイレは守られていると思うか圧迫感を感じるか、受け手によって本当に認識が変わる場所の1つだろう。
テルマエ・ロマエいわく、日本のトイレは他にないくらい発達しているらしいので、「キレイで清潔」という前提があるのも好き派がいる大きな理由だろう。
確かに自宅トイレが公園レベルのキレイさだったら、私も絶対に好きな空間にはなっていない。
TOTOあたりにはベイマックス一体型トイレみたいな、「落ち着ける空間」というトイレの良さを再認識できる日本らしいトイレを作ってほしい所存である。(ベイマックス一体型が何を指すのかは私も分からないが…)
自粛ひま人に「凪のお暇」
前回TV(ドラマ)を見ない、と言った直後にすごいお題が来てしまった。
言わずもがなだとは思うが、私はバラエティーも見ない。ニュースもあまり見ない。当然アベマTVのようなネット番組も見ていない。
ドラマも(見)ねえ、ニュースもねえ、アベマもねえとおら東京さ行くだ並みにないないづくしである私だ。
なんだ「気になる番組」って。前回「気になる(興味のある)番組があっても、話を追うのに面倒くさくなって結局見ない」という話をしたばっかりである。
お題スロットはあまり空気を読めないのかもしれない。
ただ、流石の私も「気になる番組」はなくとも「面白いと思った番組」ならある。そこまでTV×私を地雷にして生きていた訳ではない。
よって今回のお題は未来を見すえた「気になる番組」ではなく昔を振り返る「面白かった番組」である。
なんか最近のTV番組の企画のようになってしまったが、過去を振り返ることも時には重要だ。早速面白かった番組を紹介しよう。(タイトルで分かるとは思うけど。)
「凪のお暇」。私が話を追えた数少ないTVドラマの1つだ。
けっこう最近の作品なので知っている人も多いかもしれない。
ヒロインであるアラサーの凪と元彼である慎二、アパートの隣人のゴンさん、そして個性的なアパートの住人達との交流を描いたドラマである。
俳優は皆演技が上手く、話の構成も良いので普段あまりドラマを見ない人にもお勧めできる一作だ。(アマプラにあるかは知らないが。)
元々漫画原作の作品であり、私は原作分を全部読んでいた。
だから完全初見の人と比べるとジャッジが厳しかったかもと思うが、ドラマの出来栄えには感動した。
正直ドラマの方が完成度が高いかも…と思ったぐらいだ。
基本はヒロインと男二人の三角関係を描いた話ではあるが、ヒロインの「どうしても周りに合わせてしまう、無理をしてしまう」という悩みを軸に成長を描く物語でもあるので恋愛一辺倒なドラマとは異なる。
ヒロイン凪が一度すべてをリセットしたところから物語は動き出す。凪が「自分はどう生きるか」という問いが作品の根幹にあり、各キャラも様々な思いを抱えている。
でもドロドロした描写はあまりなく、まあ元カレ慎二が怖いシーンは何個かあるのだが、情景的にも爽やかなシーンは多いと感じる。
見てみると凪が優しくまっすぐなキャラで、すごく応援したくなるのだ。
凪の魅力でこの話は成り立っていると言っても過言ではない。
だからこそ彼女がモテてもしっくりくるというか、ご都合主義にも感じない。心理描写も上手い。
現実はなかなか過酷ではあるけれど、凪を取り巻く描写はどこか温かみを感じる。
悩みを抱えている人の背中を押す作品にもなっているのではと思う。
ちなみに「興味のある作品も追えない」と前回言った私がなぜ「凪のお暇」は追えたのかというと、単純に周りの人が皆見ていたからだ。
一度見始めた以上、途中で見るのをやめるとなると会話も分からなくなるし…と「見る面倒くささ」より「見ないことへのリスク」が勝ったのである。
流行りのドラマを完結まで見れたことを思い出すたび、人間はどうしたって社会的な生き物なんだということを実感させられる。
BTSよりBTF
画像でわかる通り出オチ回だ。 あとBTSは一切出てこない。
シリーズものの映画を見ない、TVドラマも「毎回決められた時間にTVの前にいるのがめんどうくさい」といった理由で見ない人は少なくないのではないか。
渋谷の100人に聞いたら10人くらいは共感するだろう。
めんどくさがり上級者になると、話自体に興味があっても、そして録画の機能があっても「録画した分の話どうなってるんだろ?」というワクワクより「録画した分、残っている話を見なきゃ…」というマイナス感情に駆られる。
TVなんてBBA&ZZIが見るもの、ネットの時代!確かにそうかもしれない。
しかしリアルタイムの放送時間に縛られなくとも、ネットにつないだTVやタブレットを使ってアマプラやらネトフリやらを起動しチャンネルまで飛ばないといけないという面倒くささは常にある。
いやどれだけずぼらなんだ、と思う人もいるかもしれない。
しかし全何話構成という製作者の都合にどうしても合わせることが出来ない、シリーズものに対しては人間からナマケモノになってしまうという人間は一定数存在する。
もしアレクサが一発でドラマを再生してくれても、そもそも大体のドラマやアニメは「連続して見ないと話が完結しない」ということが前提となっている。
「連続して見れなければ話は終わらん」というだけでたとえ話に興味があっても、作品を追うのに関してはベンチプレスを背負っているかの如く途端に腰が重くなる、という輩はいるのだ。なぜかは知らないが。
よって今回紹介する映画は3部作、しかも1だけでも楽しめる作品である。
それが「バックトゥザフューチャー」だ。
SF偏差値5の人間にも簡単に説明すると、バックトゥザフューチャーは1985年のアメリカをベースとなっている。主人公はタイムマシーンを作った博士の手違いで30年前(つまり1955年)のアメリカにタイムスリップし、そこで両親の出会いを邪魔してしまう。
結果として今の自分が生まれない状況を作り出してしまったため、どうにか両親をくっつけようとする…というのがざっくりしたあらすじである。
前述したように、私はシリーズものを追うことにはバカほど腰が重い。
かの有名なSF大作のスターウォーズや、アニメだとエヴァなんかも「連続してストーリーなんて追えない、だるさしか勝たん」という思いが大きかったために見ていない。
もともとSF小説を読んだりということもしなかったので、私自身SFに明るくなかった。
そもそもSFは雑に片づけたコードのごとく話がごちゃごちゃしてそうと、知らないがゆえにあまりプラスの印象を抱いていなかったのだ。
しかしバックトゥザフューチャーを見て考えが変わった。
めちゃくちゃ面白かったのである。
タイムスリップという軸をベースに、主人公が両親をくっつけようと頑張る姿が描かれていて、「SFはSFであることに話を重視して、キャラの心情がちゃんと描かれることはあまりないのではないか」という思いが見事に払拭された。
大衆向けエンタメ、みたいなノリだし世界観に入り込まなければ楽しめないなんてことも無い。ストーリーも分かりやすいし、テンポも良い。
タイムスリップ物の作品としてかなり良く出来てる映画なのではないだろうか。
SF初心者にもおすすめだし、個人的に文句なしの★★★★★だ。
ドナルド・トランプをモデルに作ったとされる、いじめっ子のビフなんかも今の政治を知ってるからへぇー、となる面もあっていろんな面から楽しめる映画だと思う。
我連続物映画鑑賞腰激重成、という人も、1だけで話が完結しているのでぜひ見てほしい。楽しい時間を過ごしたいならうってつけの一作だ。
映画「あなたと彩る新生活 その2」
前座が長くて申し訳なかったが、やっと本題に入る。
生活基盤は整ってはいるが、何か新生活物足りない勢にはおすすめか。
個人的には「ミニサイズの家庭菜園」なんかはいいのではないかと思う。
「は?」「家庭菜園とかしゃらくさい」そんな声が聞こえる気がする。実際私も少し前までは「しゃらくせー」派であった。まぁとりあえず私の話を聞いて欲しい。
多分、新生活始めたばかりの自分の部屋は、かなり殺風景なのではないだろうか。好きな物も自分の周りにはあまりなく、最低限必要な物だけがそろった状態。
いくらミニマリストが流行っているとしても、(少なくともこのお題スロットにつられるような人は)、すっきりした部屋にどことなく寂しさも覚えるような人なのではないだろうか。
そこで「ミニサイズの家庭菜園」である。
…ちょっと導入が雑かもしれないが別にいい。
きっと寂しさの原因は、「1人でいる」「ゆえに空間が広く感じる」という2つの要素が強いのではないか。
周りに誰もいないことを、ふと意識してしまうと誰だって多少寂しく感じるだろう。物もなく人もいない、悲しさ故に新居が実際以上に広く感じることもあるかもしれない。
多分こんな時に役立つのは「自分と一緒に生きてることが分かる存在」である。
もっと言えば「自分なしでは生きていけない存在」である。
別に私が急遽メンヘラかまってちゃんになった訳ではなく、何となく生活に物足りなさを感じている人は考えてみてほしい。
一人暮らしで一人でいることを選んだとしても、どことなく寂しさがあるならば「自分が1人ではない、日々一緒にいると感じられる存在」が必要なのだろう。
では家庭菜園はどうか。
植物は自分が水をやらなければ育たない。植物はあなたを必要としているのだ。
「家に帰っても自分を必要としている存在」がいることは、不慣れな新生活の心の支えになるのではないか。
だから共依存の相手(人間は要熟考)を探すことは生活を送るにあたって実は大切なことだと思う。
植物は育ててるうちに、自然のもつ癒やしの効果を意外と感じられるためその点もおすすめである。一度騙されたと思ってヒーリングを実感してみてほしい。
別にわざわざ花屋に行かなくても、今は雑貨屋で木イチゴやらペーパーミントやらバジルやら、ちょっと料理にも役立ちそうな家庭菜園キットが沢山売っている。場所をとらない物もかなり多い。
植物に明るくない人間からすると、愛でて終わるのはあまり興味が…となっても、食べられるのはお得感が感じられるのではないだろうか。私は今バジルを育てているのだが、けっこう楽しい。
正直必要とされる割には時間のかかる趣味でもないし、「依存」の点で見たらどう考えてもメンヘラと付き合うより上位互換に植物はいる。
別に依存どうこうを全部無視しても、植物を育てるのは面白いので新生活の彩りに考えてみてほしい。
映画「あなたと彩る新生活 その1」
ブログを書くのは実に152日ぶりらしい。
152日も期間が開いたら、ウサギなんかはとっくに成人済になっているのだが、もちろん私の文章力は成長どころか退化している。
まぁ今回からしばらくは、ブログが継続的に書けそうなのでマイペースに続けていきたい所存である。(見ている人がいたらの話ではあるが)つまらない文章でも老人のリハビリよろしく、長い目で見ていただけたら幸いだ。
早速だが「特段書きたいものもない」のでお題スロットに頼っていこうと思う。
―家事を楽にしてくれる便利家電や、ライフスタイルの変化に対応する際に役に立った本など、あなたの新生活のスタートダッシュを支えた逸品をブログで紹介してみませんか?―
(お題スロットの解説文より引用)
なるほど、いかにもブロガーやインフルエンサー向けのお題である。4月の新生活応援のノリで役に立ちそうな、便利グッズや好きなものを紹介すればレビュー数は上がるかも知れない。
正直に言おう。ない。
言いたいことを2文字で終わらせては、流石にクソ記事すぎるためにもう少し膨らませて書くが、これ!とすぐに思いつく人はどれくらいいるだろうか。
例えば1人暮らしを始める場合だと、そもそも「始めてみて初めて必要なものが分かる」といったパターンがかなり多い気がする。
最低限の服やらテーブルやら布団やらは大体みんな揃えるだろうが、ギター好きな人は(他の人だとホコリを被らせ実家に置いてきてしまっても)彼女であるギターを置いていくなんてありえないと、絶対楽器は手放さないだろう。
本好きな人なら、「少しでも空いたスペースに本と本棚をつめないと落ち着かない」と、狭い空間でもすごく細長い本棚を買って、テトリスよろしく本が天井に着くまでの日々を楽しむのかもしれない。
まぁ上記の例は好きなものがハッキリある場合ではあるが、新生活を始める前から何が役立つかと色々考えるのも皮算用のような側面があるだろう。生活スタイルによって変わるだろうが、多分最低限必要なものはみんな大差が無い気がする。
その最低限必要なアイテムの中に、「これはいいよ!」と声高々に言えるくらい家電の知識とかがあれば良かったのかもしれないが、真面目に説明書を読んでも「???」と宇宙猫になってしまうガジェット弱者の私には無い。
では新生活を始めて、生活基盤自体は出来ていても「何か彩りとかハリが生活にないな…」と物足りなくなっている人に対してはどうか。
というか、きっとはてなブログ側が意図した読者層はこのあたりだろう。
書き始めて30分経って、作者(はてなブログ)の意図に気づいたような気がするが、これは国語の問題でもなければ「30分たったので残りは20分、後は漢字で点を稼ぐしかない」というような局面でもないためどうだっていい。
では新生活物足りない勢には何がおすすめか。
…ある程度文章量が多くなってしまったので、話のテンポも加味して次の記事でまとめようと思う。
クソアリフェイトブログみたいな引き延ばし方をして申し訳ない。
もし読者の中に当ブログに興味のある知り合いがいたら「新生活の1は見なくていい、2だけ見ろ」と、映画シリーズの駄作を避けるように、そっと伝えてもらえたら幸いである。
Vtuberの面白さとは
ここ半年近く、身近にはまった人間がいたのでなんとなくVtuberを見ていた。
深追いすることも無く見続けただけだが、「Vtuberコンテンツはエンタメとしてぬるく見える」というのが一番の印象である。
別に娯楽としてのコンテンツ、面白さとしてトップを狙っている訳ではないだろう。
ただかわいい(かっこいい)キャラクターが ゲームなりおしゃべりなりしているのを楽しむ、というのは他のエンタメと比較し内容も濃いとは言えない。またゲームの大会や企画をやっていてもその面白さはゲームをプレイしない人間には伝わりにくい、という点もある。
この記事ではVtuberの今のあり方と今後の可能性について書いてみようと思う。
界隈に言われることに対しての地雷が多い人は閲覧非推奨だ、Vtuberファンがこの過疎サイトを見ていたらの話ではあるが。
(もしVtuberファンの方がいるなら、私が「今の状況はおかしい」「こうなるべきだ」と語っているのではなく、「ここがもったいない」「こうなったら面白いのではないか」という考えを述べているだけだということを留意してほしい。
当然反対意見の人もいるだろうが、私は討論がしたくて記事をあげるわけではないためそのような感想は一切受け付けない。)
- そもそも主な活動内容がゲーム、歌、雑談に偏っている人が多い。むしろこの3つ以外をやっているVtuberは稀である。
→リアルのyoutuberよりもやっていることが狭い。確かにyoutuberのように実験動画や検証動画は出しづらいかもしれないが、2次元だからこそ出来ることはもっとあるのではないか。例えば背景を変えて一瞬で別の場所に移動できるのも、リアルでは出来ない表現が可能なのも2次元の強みではないのか。Vtuberをやっている人間自体が強みを持て余しているように感じる。
- 活動に関して
喋りは芸人ほど面白くない。
ゲームの腕は本当にうまい人と比べたらそうでもない。
当たり前ではあるがどっちつかずの人が大半を占めているように感じる。ゲーム実況は大多数のVtuberが行っているが、そもそも「ゲーム実況」という枠組みの中で実力や魅力を発揮できるのは一握りの人だけなのではと思う。
既存のパイがある意味youtuberよりも狭いからこそ埋もれている節は大きいのではないかと感じる。
というより、ほぼ大半と言ってよいくらいのVtuberがゲーム実況をしているのに、トップのyoutube実況者と比較すると登録者や認知度が落ちるのはどういうことなのだろうか。
リアルの人間と比較すると色々と劣っている、ということなのだろうか。
- キャラクター性に関して
Vtuberの特徴に「キャラクターである」という要素は大きい。
ではそのキャラクターを活かせている人はどのくらいいるのだろうか。
これは前述の「2次元であることを持て余している人が多い」という事にも繋がるが、「リアル実況者と比較し実力や面白さは劣るかもしれないが、それでもかわいいキャラクターが操作をしているのは1番魅力的だ」と感じる人間しか主に来ない、という事にも繋がるかもしれない。
でも本当にキャラクターに惚れている人間はそこまでキャラクターのゲーム実況を見たがっているのか。
そして実況に惹かれている人間は実況者がキャラクターであることにそこまで価値を感じているのか。
キャラクターはかわいい。
リアルな人間のバストアップ画像を見続けるのは人によってはきついかもしれないが、単調なキャラクター画像でも見続けていられるのはキャラクターには生々しさが弱いこと、いつどこのシーンでも整った姿でいてくれるという要素が大きいように思う。
これはキャラクターが人間のマイナス要素を減らしてくれてる、2次元ならではの恩恵だろう。
しかしこれは「人間と比較しマシ」という要素であって「配信の面白さ」に結びついている訳ではない。
むしろ「キャラクターを使って何をするのか」という考えが人気を取ろうとするなら必要だろう。
- 「作業用」という文化
ゲーム実況でも雑談でも、Vtuberのメインコンテンツには「作業用」と称してながらにおすすめですよ、とPRしているものを多く見かける。
これは自身のコンテンツを「ずっと見ていなくてもいい」「聴いていれば何となく分かる」と言っているのとほぼ同じように感じる。
ここには「キャラクターであるメリット」が視覚的な面で無くなり、youtubeの「視覚」という大きな要素がはぎとられることとなる。
もしここで「キャラクター」という設定を活かさなければ、これは「芸人のラジオ」「実況者のラジオ」を聞いているのとほぼ同じ状態と言えるかもしれない。
では、喋りで芸人や実況者に張り合えるようなVtuberはどれくらいいるのだろうか。
現状Vtuberは活動領域が狭く、youtubeを基軸に活動していてもyoutuberにすら張り合えていないのが現状だろう。同じプラットフォームで活動しているのに、別ジャンルのファンを引っ張って来れないのはもったいないと思う。
そもそもキャラクターコンテンツに興味ある層にしか言及できていないように感じる。そして本当にキャラクターが好きな人はそこまで実況を求めているのか、という疑問もある。ゲームも2次元キャラクターもどっちも好き、という人間の中でVtuberを楽しめる人達がファン層として大きいのではないかと思う。
- 横の繋がり
Vtuberには「コラボ」文化がyoutuberよりももっと大きく根付いてるように見受けられる。
デビューしてからコラボなしで活動している人はだいぶ限られるだろう。配信した動画の中で半分以上は誰かとのコラボ配信だった、ということはざらにある。
新規のファンはそのようなチャンネルを見てどれだけ食いつくだろうか。もちろん全てがそうだとは言わないが、コラボは「友達と遊びたい」という演者側の気持ちが大きいものも多く見える。
実際コラボで大きくバズった人はVtuberの割合としてどのくらいいるのだろうか。
MMDというキャラクター文化をご存じだろうか。CGの2次元キャラを動かせ、曲に合わせたダンスのPVなどを作れる、というものである。
Vtuberが生まれるよりも前にあった、「リアルより」のキャラクターを楽しめるコンテンツである。
大きな違いは「動きの部分を実際の人間が行っているか」否かにあるだろう。
今日のVtuberの3Dライブ配信などを見ると、いかにMMDに近いものを作るか、ということを意識しているように思える。
しかし、Vtuberのライブを既存コンテンツのMMDに近づけることにどれほどの意味があるのか分からない。
「技術が上がっている」という話題に関しても、制作者が目指しているのはMMDと変わらないようなコンテンツを届けることなのだろうかと考えてしまう。
「中に人がいる」ということで凄さが伝わるのなら、それが伝わらなかった時に、MMDを見る視線と全く同じものをVtuberは注がれることとなる。
見た目は同じでもオチを知って新たに感動できる要素とVtuberがともにあるのなら、それはある種哲学的な話になるだろう。
まとめると、
VtuberはYoutuberよりも、そもそも提供しているコンテンツが少ない。
Vtuberの多くがやっているゲーム実況も、実況者と比較すると数字、知名度や面白さが見劣りしてしまうものが多い。
自身が2次元だということを生かして配信している人が少ない。
コラボ文化を生かせている人は多くない。
「作業用」という聴覚重視のコンテンツで、芸人のラジオやアーティストのプレイリストに勝てるような人はまれ。
3D技術が既存のMMD文化と似ていることにより、新しい技術なのに新しさが感じられない。
もったいないと思う点が多く挙がった。
当然Vtuberは数字を追い求めず楽しくやっている人も多いだろう。しかし投稿、配信頻度も多く内容も工夫し頑張っている人も沢山いるのに登録者100万人越えは現在3人。200万に絞れば1人だ。
実況者との比較にしても、私は必ずしもyoutuberに劣っているとは思わないが、結局Vtuberのやっていることがyoutuberの後追い(に見える)なのでいまいち目立てていないような気がした。
でも、上記の点が変わったならば新たなファンも増えるのではと感じた。
しかし、ここまで考えてみるとある思いが生まれた。
「もしかしたらVtuber界隈は、そこまで新規ファンなんて求めてないのかもしれない。」
そもそも、今までyoutubeファンにしろ何にしろ、Vtuberのすそ野を広げる方法も丁度よいタイミングも山ほどあったのである。
しかし全体的の流れを見ると特に何もせず、事務所の相次ぐ撤退などで界隈が衰退しているように見える部分があっても、そもそもの注目度が以前より下がっても外部への働きかけはほぼ無かったように思う。
次はなぜファン増員に消極的だと感じさせるのか、また別の点から書いていきたいと思う。
甲子園とネットモラル
甲子園中止のニュースを見て悲しかったのは、球児たちを無念に感じたからだけではない。ネットモラルの無い人が、どのくらいの割合を占めているのかと考えてしまったからだ。
先ほどツイッターを見ていたら「甲子園中止」のニュースが流れてきた。予期していたが、子どもの頃からこの舞台を夢見て学生生活の全てをかけて戦ってきた人間の悲しさややりきれなさは計り知れない。この辛さは何かを目指して生活全て打ち込んできた人間でないと理解することも難しいのではと思う。
私は特段野球好きという訳ではなく、むしろ甲子園はほぼ見たことがない。
しかし春大会も無くなり、中止というのは流石に、せめて無観客で秋頃にずらすとか手の打ちようはあるのではないかとニュースを見て思っていた。
しかしここで驚いたのは、少なくとも無念とは思っていない人々の対応である。
ツイッターで甲子園中止を検索ワードに入れると「嬉しい」と予測変換に入ってくるのだ。他にも「取りやめは仕方ない」という配慮無い意見が見れるだけでなく、どこか中止を喜んでいるものも結構な量、少なくとも予測変換になるくらいには見受けられるのである。
面と向かって相手に言えないことはインターネットに書かない、というのは昔学校で教わらなかっただろうか。というより似たような言葉でも一切触れずに生きてきた人間は今日のネットユーザーでほぼいないだろう。
つまるところかなりの人間が基本を忘れているか無視して生きているのである。もちろん炎上を狙っていたり、おかしな人がそもそも一定数いるのは知っているが、今回はかなりの数の普通のユーザーが言ってはいけないラインを軽々飛び越えてしまった感じがする。
人にはあまり言わないこともツイッターには書き込む人が利用者の多数を占めるのではないか。だから今まで甲子園やスポーツそのものに縁がなく、かつ学生時代に野球をやるタイプの友人がいなかったり、そのような人とのいい思い出があまりない人が中止を嬉しがったり、仕方ないと言っているのではないかと思う。
確かにネット上ではそもそもスポーツマンの割合は少ない。球児のツイッターアカウントもあまり見ない。フォロワーに野球ファンがいなければ「まあ喜んでも特に誰かに何か言われることもないだろう」と思っているのかもしれない。
上記のように考え呟くのは色々と間違っているのではと思う。
仮に野球部との嫌な思い出があったとしても、大多数の人が今回出場する選手とは関わりの無い、個人的な相手との記憶だろう。
今回喜んでいる人は「自分が勝手に同類だと判断した、全く別人の雪辱を」喜んでいるのである。
例えるならば「特にいい思い出がなく外国人が嫌いだから、事件の被害者になってくれてよかった」みたいな感じである。これでは街頭インタビューにのらないだろうし、のらないようなことはそもそも言うべきではない。それは少なかろうと高校野球ファン、関係者、球児が見ることもあるツイッターも同じである。
とても当たり前の話になるが、フォロワーが少なかろうと野球関係者がいなかろうと中止称賛ツイートは検索をかけたらフォロー外の人間にも目に入るのである。
実際数少ない球児のツイートにも「『甲子園中止は仕方ない』という意見は目標にして死ぬ気で頑張ってきた人たちにかける言葉ではない」というものがあった。ではなおさら喜んでいる人のツイートを見たらどう思うだろうか。
このような出来事はユーザーのネットモラルの無さと「リア充滅びろ」のようなネット文化が悪い方向に打ち出された結果だろう。
皆今一度インターネットの使い方を確認すべきタイミングなのかもしれない。